もふもふ読書記録

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『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』の読書記録

書籍情報

著者 マイケル・サンデル
訳者 鬼澤忍
出版年 2011
出版社 早川書房
ジャンル 政治・哲学・道徳

どんな本?

筆者からみた正義論のチャート式総覧。本書では正義の概念を「功利主義」、「リバタリアニズム」、「カントによる義務論」、「ロールズの公正に関する理論」、「アリストテレスによる目的論」、「コミュニタリアニズム」の6つの観点から検討し、それぞれの立場からの主張や反論を紹介している。その上で、筆者はコミュニタリアニズムの立場から正義を論じる必要性を説く。

また大きな論の構成としては、はじめに本書における「3つの正義へのアプローチ」を示した後、筆者と主張を異にする立場――功利主義自由主義――を具体的な例を用いて検討し、これに反論する形で自説を展開するという形式をとっている。

読みどころ・面白い部分

「セント・アンの乙女、一晩50ペンス」(2章)

米・オックスフォード大学ではかつて女子寮に男の来客が泊まっていくことが禁じられていた。 この規制が緩和される際、反対派のある人は功利主義的に次のような反論をした。「男性が宿泊すると入浴による湯の使用量やマットレスの交換回数が増えるので寮の経費が増える」と。 改革派はこれに妥協し、客は一泊あたり50ペンスを支払うことになった。*1

若い女性のもとに男性が泊まるのは道徳的ではない」と、直接的に表現すれば(改革派はそうすることを認めれば)このような珍事(?)にはならなかったろうに……。 美醜の論理は美醜の論理としか語りえないということの好例になっている。

嘘をつくこと(5章)

友人があなたの家に隠れていて、殺人者が彼女を探しに戸口へやってきたら、殺人者に嘘をつくのは正しいことではないだろうか。カントの答えはノーだ。真実を告げる義務は、どんな状況でも適用される。...あなたが真実を告げなければならないのは、...それが嘘であるからだ。...カントの主張は受け入れがたいもののように見えるかもしれない。だが私は、彼の言い分を擁護してみたいと思う。...一つの選択肢は、真実ではあるが誤解を招く表現を使うことだ。「一時間前、ここからちょっと言ったところにあるスーパーで見かけたよ」*2

嘘をついてはいけない、といったとき私達は――たとえそれが自分の不利益になるとしても――真実をありのままに告げなければいけないと思ってしまいがちだ。カントの義務論を扱う時は特にそうである。しかし、この例からはカントの主張の別の側面が見えてくるように思う。すなわち、正直であることや誠実であることといった美徳に対して、最大限の敬意を払おうとすることこそが最も重要な部分なのであって、結果として相手が事実を誤解しているかどうかは道徳的か否かに関係しないという考えである。

もちろんこれは筆者の弁であるから、カントがここまでの内容を意図していたかどうかは定かでないが、カントの道徳観を再考するための興味深い事例であると感じた。

同性婚について(10章)

国や州が結婚に対して取りうる方針は...3つある... 1. 男性と女性の結婚のみを認める。 2. 同性婚と異性婚を認める。 3. どんな種類の結婚も認めず、その役割を民間団体に委ねる。 同性婚論争の賛成派にも反対派にも、結婚精度廃止案を養護する人はこれまであまりいなかった。だがこの案によって既存の論争の争点に光が当てられ、同性婚の賛成派・反対派双方が、結婚の目的とそれを定義する善をめぐる本質的な道徳的・宗教的論議をせざるを得ない理由が見えてくる。*3

自由という観点から同性婚を擁護する場合、その論者は必然的に任意の形態の婚姻を認める必要が出てくる。このことから単に同性婚を擁護するといった場合、それは「結婚の目的・善」について中立的ではいられない。このような議論は一般的な論題に対して適用できるのが面白いところである。すなわち、ある人が目的を議論することを避ける場合、それは任意の選択を許容することになり、究極的には政治の範疇ではなくしてしまう。政治について語る以上は価値判断を免れえないというのは実に面白い観点だと思った。

くわしい内容

第1章 正しいことをする

第1章では正義には「3つのアプローチ」――福祉の最大化(功利主義)、自由の拡大(リバタリアニズム、カント、ロールズ)、美醜(アリストテレスコミュニタリアニズム)――があることを説明するとともに、トロッコ問題や災害時の便乗値上げといった問題を引き合いに出しつつ、道徳をめぐる問題を市民全体で議論する必要性に言及する。

第2章 最大幸福原理――功利主義

第2章のテーマはベンサムやJ・S・ミルによる功利主義である。ベンサムによれば最も道徳的なことは苦痛を退け、快楽を増すことである。経済的な損益のみならず、人間の生死や感情なども吸収する「効用」の多嘉が行為の判断基準となる。これには基本的人権や効用という「単一」通貨では道徳に係る事物を完全なままに測ることはできないという反論がつきまとう。

一方ミルは効用を長期的に最大化するために個人の自由――基本的人権――が存在するとし、快楽には「質」が存在すると説く。しかし、筆者によればこの超克によってミルは功利主義の原理から逸脱している。物事の優劣を人間が実際に欲しているかではなく、人間の尊厳から引き出しているからである。

第3章 私は私のものか?――リバタリアニズム(自由至上主義)

リバタリアンは自由こそが正義の第一原理であると考える。もし所得の再分配などを認めれば、それが福祉を増大させるとしても、他者の一部を所有することになり、それは奴隷制と変わらないという。故に福祉国家は悪であり、最低限の治安維持等を行う最小国家こそが望ましいというのがリバタリアンの主張である。

これに対する有力な反論として筆者は成功者の「運」を引き合いに出す。ある人が成功する要因となる才能や時流は本人にはどうすることもできないものである。また、自分が自分自身を完全に所有しているならば臓器売買や自殺幇助、合意の上での食人なども認められうると指摘する。

第4章 雇われ助っ人――市場と道徳

自由市場の擁護論は2,3章で取り上げた功利主義リバタリアニズムによって正当化されることが多い。功利主義によれば、自由市場は全体の福祉を促進し、リバタリアニズムによれば市民の自由を尊重しているということになる。しかし、自由市場擁護論は2つの批判に晒される。1つ目は自由市場における自由には限界があるというもの、2つ目は市民道徳や人間の美徳にもとるというものである。自由市場において人は情報や経済的余裕の不足によって常に「自由な」判断が下せるわけではない。また、市場では評価することができない道徳や美徳が存在する可能性を考えるべきだと筆者は主張する。

第5章 重要なのは動機――イマヌエル・カント

第5章では道徳とはどのようなものか、自由とはなにかという問いへの一つの答えとしてカントの思想を取り上げる。カントは自由と正義を結びつけた(2つ目のアプローチ)がその自由とは、「欲求や慣習など外部のものが決めたものに従って行動するのではなく、自らの理性が告げる自ら作った法則(定言命法 *4 )に従って行動すること」であり、道徳的に行為するというのも全く同じである。

カントは以上の概念をもって政治について以下の内容を主張する。すなわち、他者の自由を侵害しないことと、正義と個人の権利は「仮想的な社会契約*5」に由来するということである。

第6章 平等の擁護――ジョン・ロールズ

カントの作り出した「仮想的な社会契約」という概念に一つの形を与えたのがロールズである。彼によればそれは原初状態において人々の同意が得られるような原理であり、その具体的な中身は「基本的自由が全ての人に与えられていること」と「社会で最も不遇な立場にある人々の利益になるような差別のみを認める」というものだ。後者の考え方はちょうど「悪平等」のように聞こえるかもしれないが、これは道徳的恣意性――偶然により分配される才能や時流など――による報酬を共同体全体のものであると、その恣意性の持ち主に理解してもらい、共有するというものだ。これは究極的には「富など価値あるもの一般の分配について功績は一切関係ない」ということを意味する。

第7章 アファーマティブ・アクションをめぐる論争

アファーマティブ・アクションを養護する有力な論理に多様性の推進がある。これに対しては優遇されない側の権利を侵害するという原理面での反論が見られるが、そのような「美徳に報いられる権利」は存在しない。評価する側は自らの社会的目的をそれぞれで(ある程度)決定できるため、その評価結果はそもそも「美徳に報いるための名誉」ではない。

第8章 誰が何に値するか?――アリストテレス

第8章では正義と道徳が不可分であるというアリストテレスの哲学を扱う。アリストテレスによれば正義とは名誉・美徳・善に関わるものであり、行為の目的を考えずして正義を決定することはできない。自由主義派による正義論では行為の目的に対して中立を堅持しようとするが、本質的に目的や美徳について中立ではありえないのである。

第9章 互いに負うものは何か?――忠誠のジレンマ

第9章のテーマは「人間は真に自由であるか否か」である。カントやロールズ、そしてリバタリアンは、人間は何にも拘束されない自由な存在であり、自ら独立して自分にとっての善を選び取ることができると考える。一方、筆者を含むコミュニタリアンらは人間は誰しも自らの所属するコミュニティの文脈を受け継いでおり、これへの帰属こそがが善や美徳の端緒であると主張する。こうして人はなんの合意もなしにコミュニティから利益を受けたり、責務を負わされたりすることになる。

第10章 正義と共通善

筆者は本書での議論を踏まえて、特定の価値観から脱却する中立な政治ではなく、美徳・目的を語る政治を行うべきだと主張する。今よりももっと活発な市民生活や議論の中に、より強固な相互的尊重に基づく政治、そして正義に叶う社会の可能性を筆者は見ている。

*1:これは厳密な引用ではなく、書中の表現を要約したものです。

*2:pp.211-213

*3:pp.396-400

*4:自分の格率が常に普遍的な原理になりうることと、自分を含む全ての人格を目的として扱うこと

*5:これについてカントは詳しく述べていない